【連載】未来の「場」のつくり方 第6回 後編

自分の内側にあるネガティブな感情と向き合って昇華させる方法は、心理療法を始めとして、さまざまなものがあります。

その中でももっとも歴史が古く、シンプルな方法が、宗教などで行われてきた「懺悔」です。

 

私たち現代人は、ポジティブ思考に偏り、ネガティブや汚いもの、穢れを嫌い、それを見ないようにするような側面もあります。

しかし、古くから人類が懺悔を行ってきたことは、自分の闇から逃げずに見つめ合う大事さを示しているのではないでしょうか。

 

後編では、宗教的側面から見た「懺悔」の意味と価値について、山伏の長谷川智先生にお話いただきました。

長谷川智(はせがわ・さとし)

 

湧気行代表。羽黒派古修験道先達(二十度位)。筑波大学大学院修士過程修了(スポーツ心理学、剣道)。

山形県出羽三山などでヨガ・瞑想行法・滝行の指導を行うほか、一橋大学や朝日カルチャーセンターでの体育、ボディワークも指導。著書に『超人化メソッド』(BABジャパン)など多数。

近年は、山梨県河口湖で修験道体験ができるワークショップを随時開催。外国人や学生、女性の参加も多い。

湧気行  https://yukikou.org

ホネナビ・マインドフルネススタジオ代官山  https://www.easyoga.jp/workshop/

 

●その他インタビュー(講師インタビュー) 

https://www.somaticworld.org/2016.hasegawa/

ネガティブや闇とからだで向き合う〜山伏のさわやかで明るい“懺悔”(後編)

懺悔は世界がより良くなるための大事なプロセス

懺悔の大切さは、僕が実践する修験道の教えでも説かれています。

 

修験道では、「十界修行」という修行を行います。修行では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の10の世界を体験するのですが、懺悔は人間界での修行です。

 

何に対して懺悔するのかというと、ずばり、「大いなるもの」に対してです。

 

「精霊や神様、仏様といった大いなるものを降ろしてきて、懺悔をすると、ゾーンに入り、崇高な意識状態になっていく。その意識状態になったら、今度は周りが幸せになるように行動していく」というのが、修験者の基本です。実際に修験道では、「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら山を登っていくんですよ。

(※ 六根……眼、耳、鼻、舌、身、意の五つの感覚器官とそれを統合する意識)

 

これをやると、六根がきれいになって、正常に働くようになる。

懺悔を最初にしっかりやらないと、修行が砂上の楼閣になるような感じはあります。

 

人間には「地獄の心」があるし、「菩薩の心」も「仏の心」もあります。動物的なものも、崇高さも全部含んでいるのが人間です。

だから、自分のダメなところを無理して責めなくていい。

カラっと、明るく、さわやかに、心の至らなさやネガティブな部分を見ていく。

くり返しますが、懺悔の大事なポイントです。

 

懺悔の考えは真言宗や天台宗にも共通すると思います。いちばんわかりやすいのは浄土真宗じゃないかな。宗祖の親鸞が説いた「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」があるでしょう。

悪人正機説は、「阿弥陀様は罪の自覚のない善人面したろくでもない奴でさえ救うのだから、『私は悪人だ』と自ら認める人を救わないはずがない」というものです(*さまざまな解釈あり)。

人間は罪を自覚して、それを小手先でこねくりまわすよりも、聖なる存在に預けよう、と親鸞は言っているわけです。

 

この考えは仏教だけに限りません。

イエス・キリストは人類の罪を代表して磔になったでしょう。

懺悔は世界共通の行為なのです。

宗教的にいえば、礼拝して、懺悔して、灌頂して、その後に幸せがみんなのところにやってくるという循環になっているんですね。だから、懺悔は世界をよりよくしていくための大事なプロセスなんです。

 

もちろん、「大いなるものの力や助け」がなくても、自分で乗り越えていこうとする修行の姿勢もあります。

例を挙げれば、座禅や瞑想などをして、起こることをありのままに見ていけば、自分の中のネガティブな部分を変容させることができます。

ただ、それには、「見る」という行為の質が高まらなければならない。「見ること」に変容させる力を持たなければなりません。

 

もしも、自分を見つめる力がまだ備わっていないと感じるなら、素直に大いなるものの助けを借りて、潔く自分の未熟さを認めればいい。それから「ありのままの眼差し」を育てていけばいいと思います。

誰の心の中にもある「戦争の種」

贖罪や懺悔の意識って、苦手に思う人もいるでしょうけど、決して悪いことではないと思うんです。負うものがあるからこそ、人間は一生懸命良いことをします。マイナスを少しでも無くそうとして頑張れますから。

 

先日のソマティック・ダイアローグ(2022年3月開催)でもお話ししましたけれど、ロシアのウクライナ侵攻も、プーチン大統領が悪いというのは簡単なんだけど、そもそも予想できないことをやらかすのが人間ですよね。

 

フランスの文芸評論家のロジェ・カイヨワは「戦争論」の中で「戦争をしたいという破壊欲求が理屈を超えて、人間の内にある。まずはそれがあることを認めていかないといけない」と述べていました。

僕も、人が人を殺すという破壊欲求を自分達も持っているんだと自覚するのが、まず大事だと思うんですね。

 

絶望的な気持ちになる人は多いでしょうけど、同時に、生きることに真剣味が出るんじゃないでしょうか。

人間の内にあるおどろおどろしいものに真正面から向き合って、それを引き受ける練習をしていると、だんだん慣れてくるようになります。

 

「ああ、自分にも悪や闇があるんだ」って潔く認められる。

 

だから僕は、相手が悪で、自分は善みたいな立場には立てないです。

「共に悪い、けれど、共に大いなるものも背負っているんだ」という発想のほうが健全だと思うのです。

 

懺悔をすると、皆さん、自分の非を認めて気持ちが落ち込んでいくように感じるようですが、本来の懺悔は、自分をありのままにみて、精一杯やろうと覚悟する行為です。

これは、ごくごく真っ当なことだと思っています。

 

懺悔は、単なる、表面的な自己実現をこえた世界に心を向かわせてくれます。その結果、人類全体が成長していくプロセスになっていくのかもしれないですよね。

怒りは憐みに、貪りは愛に、無知は智慧に変わる

僕の修行の師匠・佐藤美知子先生は、懺悔によって「貪瞋痴(とんじんち・人間の根源的な3つの煩悩)」が変容する、と教えてくださいました。

   

仏教的な意味では、人生は「苦」であると言われています。生きていることの苦しみ悲しみは、どんな人も持っています。

いつか必ず死んでしまうという悲しみ、生きるためにしたくないことをする悲しみ。老いる悲しみ。病む悲しみ。 苦しみの背後にある利己心。

そういうところへ温かい眼差しを注ぐところに「慈しみ」がまた出てくるわけでね。

 

それを裏付けるものとして、観音経の中にある「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」という言葉を紹介しましょう。

「慈眼視衆生」は、一般的には「観音様は悟っていない心(衆生心)を慈しみの眼で見て救ってくださる」という意味です。

しかし師匠は「これは瞑想の仕方である!」と教えてくださいました。瞑想において、そのような慈しみの眼をもってこそ、貪りは愛に、怒りは憐みに、無知は智慧に変化してゆくのだと。

 

悪いものを振り払うのではなく、だからこそ慈しむ。これを、身をもって、リアリティをもって、納得していくことが大切だと思っています。

(終)

 

(インタビュアー/半澤絹子 2022年4月中旬 新宿の喫茶店にて)