その時、相手が必要としている安全安心を提供すること
(前編はこちらから)
前回は、支援者が提供している「安全」や「安心」は誰のものかを改めて問い直しました。おそらく、支援者間で、あるいは支援者と被支援者との間で、目指される「安全」や「安心」は異なるのだろうと思われます。
この後編では、相手の求めに適っていない「安全」や「安心」の提供が「暴力性」を持つ可能性があることについて深めてみたいと思います。
まず、「心身社会研究所 自然堂」の津田真人先生がポリヴェーガル理論から導き出した3段階の「安全」についてご紹介したいと思います。下記の表をご覧ください。
これら安全の3段階はそのまま、ジャネやハーマン、v.ハート、コーク、オグデン等のトラウマケアの3段階と照応しています(津田, 2022, p. 203)。つまり、支援場面でこの安全の順序が混乱を来した場合にはセラピーが奏功することはなく、かえって被支援者を深く傷つけてしまう場合もあると言えるでしょう。
例えば、発達トラウマが収束していくということは、「安全の感覚にアクセスし、安全の感覚を獲得する」ということに他なりません(Kain, & Terrell, 2018, p. 353)。これは、小さな活性化と脱活性化のドラマチックな繰り返しによって完了を目指していくような、単回性のトラウマへのアプローチとは全く異なったプロセスです。(※1)
トラウマは外見からうかがい知ることができませんし、本人の中でも消化しきれないまま意識化できていないことも多いものです。加えて、トラウマは一般に考えられているよりももっと広範に、ごく普遍的に社会に内在化されています。
身体の変化は精神や生き方の変化と同義です。医療や福祉の場面に限らず、ソマティックな営みが安全安心を追求していくのならば、こうしたトラウマへの理解は今後ますます不可欠となるでしょう。
本来、人間は受精の直後から、ハイハイをする、座る、立つ、おなかを満たしてもらう、いやな感じをなだめてもらう、食べる、しゃべる…etc。こうしたそれぞれの月齢や年齢におけるノルマ(発達段階)をひとつひとつクリアしながら成長します。ですがおそらく、課されたノルマを順番通りに、すべて達成できる人はまれで、私たちは身体的には飛び級をして大きくなることができてしまいます。
しかもこのノルマは、積み残しが多ければ多いほど、大人になってからのひずみは大きくなる傾向にあるようです。そのうえ、往々にして疲れたり体調を崩したり苦境に立たされたりした時、私たちの積み残したノルマの最も古いものが喘ぐように見受けられます。ここにトラウマケアの難しさがあります。
【何かを学ぶこと、何かを得ること】は、【何かを知らず、何かを持っていなかった自分を失う】ということです。そうであればこそ、成長は喪失であり、痛みを伴います。これは成人の回復についても同様です。
乳幼児のニーズは受動的でありつつ自分の全要求を満たされることであり、それこそが神経系の基盤になります。能動と喜びを結び付けて論じる哲学者もいますが、人間の発達のメカニズムからすると、受動の喜びを知らずに能動には行けないことでしょう。成人のセラピーにおいても、自律や成長を急ぎすぎれば回復は頭打ちになりかねません。成長と回復が善きものであるというバイアスが強いほど、私たちはそれが持つ負の側面への配慮を忘れてしまうのです。
実年齢と、積み残しのノルマ。その矛盾が、セラピーのニーズの針路を濁らせることは少なくないように思います。なお難しいことに、認知的なレベルのニーズと生理学的なレベルのニーズは必ずしも一致しないのです。
クライアントさんが受動的に全権を委譲するノルマを達成していなければ、セラピー中に提供する選択の自由や自律のサポートが、セラピストの意図とは裏腹にクライアントさんに恐怖をもたらすこともあるでしょう。逆に、まるで乳幼児に相応しい環境をあてがわれたような違和感がセラピー中に引き起こされれば、それもまた害となります。
ショックトラウマへの介入法が発達トラウマの場合には害になるのと同様に、あるいは、大人にとっての妙薬が乳幼児の毒になるのと同様に、クライアントさんの実年齢に相応しい関わりであればこそ、内奥で疼く傷を抉る可能性があるのだということは、想定されて然るべきなのでしょう。もちろん、その逆もまた同様に。
積み残しのノルマの疼きと、実年齢が言わせる欲求。そのハイブリッドで身動きならず、どちらへ行こうとも何かが満たされず、常にいずれかのニーズを脅かす事態、そこに、私たちは直面せざるを得ないのかも知れません。
では【アート】とも表現されるSE™では、いかにすれば安全安心と自由を構築できるのでしょうか(※2)。SE™では【実験】や【好奇心】は頻出ワードですが、これらは発達トラウマによる苦境の中でこそ最も縁遠いようにも思えます。
ここから、先日のソマティックフォーラムで考えたアートとセラピーの共通点に話を展開します。
私が考えた「アートとセラピーの共通点」とは
2023年のソマティックフォーラムに参加した時、私は、
「アートとセラピーの共通点」として、「有機体としての人間」が前提としてあり、 定型やプロトコルは存在せず(あるいは忌避され)、 惹起される感情も感覚も言葉にしづらく、 「結果至上主義」の現代にはなじまず、 かつ、よきことばかりが起きるのではなく、時にザワッとする感じが引き起こされ、 でありながら、それらザワつかせる感じすらも重要な要素と見做される
とメモをしました。
この真偽はさておき、おそらく、このように感受される可能性を持つものを受容して楽しむまでには、何らかの順序やステップや段階が必要でしょう。相互に、そして個人の中に、成熟や信頼や余裕があれば成立するのでしょうが、もしそれらが形成途上であるなら、「安全という名の管理」で補填しなければならないかも知れません。
安全のための境界線は、協調して引く
では、「安心安全」と「自由や信頼」は両立しえないのでしょうか。そうであるならば、セラピーはどう方向づければ良いのでしょうか。
津田真人先生は、冒頭で触れた著書の中で「3段階目の安全は「自由」として意識される」と述べています(津田, 2022, pp. 197-198)。
私は「安心安全」と「自由や信頼」という段階を、あるいは両極を、矛盾なく並列させる鍵となるのは、相互の、あるいは自己への、「尊敬」であろうと思っています。双耳峰のように相反するニーズが屹立した事態を収めるのならば、ニーズを満たすのではなく、「ニーズの射程を共に創るところ」から作業するよりほかにないような気がします。それはセラピスト側のニーズについても同様で、自身の中に疼くニーズに謙虚さを持って真摯に向き合わない限り、事態は膠着してしまうのではないでしょうか。
SE™を創始したピーターは、「私たちは常に最も学ぶべきことを教えている」と述べています。私たちセラピストは、癒やすべき自分の傷を他者に見出し、対峙するかわりに救おうとする陥穽の辺縁に立っていると感じることがあります。それ故に、両極を包含する創造的な道のりは、人として出会い、権力勾配を排し、「尊敬」から出発してこそ拓かれるように思えるのです。
関係性の中で双方を護る境界線は、初めから存在するのではなく、引くものですよね。安全安心の名の下では、盾越しに対峙する暴力性は見過ごされがちです。一方的に引かれる境界線は拒絶であり侵略です。そうであるならば、双方納得尽くで、痛み分けの形で引くのが理想なのでしょう。精神科医の神田橋條治先生は「生きとし生ける者は皆、複雑性PTSDである」とおっしゃっていました。私たちがどのような立場で出会ったにせよ、突き詰めれば動物同士・複雑性PTSD同士です。そうであるならば、有機体らしく、折々に、協調して引く境界線でこそ、ポージェスの言うところの「治療としての安全」として機能し得るのではないでしょうか。
統合ー蔑むものの中に神性を、信奉するものの中に毒をー
さて最後に、フォーラムの最終盤で出された 「なぜソマティックの人は同業同士で仲が良いのか」という話題について、私見を書いてみようと思います。
さまざま理由はあるのでしょうけれど、統合に向かう人々が集うならば、その場は突出した個人が存在し得ない、統合へと向かう場となるからではないか、と私は思っています。個人とコミュニティーは相似形ですから。
個人的に、ソマティックな人というのは謙虚さとオープンな関わりとがバランスされている人であるという印象を持っています。この世界で、100%都合が良いとか、100%悪だとかいうものは存在しえないでしょう。まして、それは個々の人間や各種のモダリティであればなおのことです。
何かに価値を見出さないということは、それが持つ益のみならず害についても謙虚な探究を怠ることにつながりかねないと思います。逆もまた然りで、害を認められないならばどれほどの希少な価値であっても毒に反転してしまうでしょう。
蔑むものの中に神性を、信奉するものの中に毒を見出してこそ、生き物は豊かになれるのではないでしょうか。そのロールモデルとなるのは、ソマティックな実践者やセラピスト以外にないと私は思います。
【両極のいずれでもなく、いずれでもある。折衷ではなく、混在でもなく、統合である。揺らぎを許せる橋である。】そんなセラピストが増えれば、この世界は、苦しみを抱えながらも豊かに回っていくのではないでしょうか。
(おわり)
石川詩織(いしかわ・しおり)
トラウマセラピスト。SE™(ソマティックエクスペリエンシング® ※1)など、身体指向の心理療法を専門とする。
自称【ソマティックのファン】。さまざまな憧れの先達に会いに行くことが最大の喜び。
公式ウェブサイトやX(ツイッター)で不定期にコラムを掲載中。
ウェブサイト:https://wholesome.blog/
(用語解説)
※1 ショックトラウマと発達トラウマ
ショックトラウマは単回性のトラウマ、発達トラウマは虐待やネグレクトをはじめとした慢性的・反復的な外傷体験を指す。典型的な単回性のトラウマには、交通事故や自然災害や近親者の喪失などがある。数年前に話題になった複雑性PTSDと発達トラウマには重なり合う部分もありつつ、全く同じものを指しているわけではない。
より詳しい内容については下記で述べている。https://wholesome.blog/no-1/
※2 SE™における安全安心
「トラウマは生死にかかわるものであるため、トラウマに内在するエネルギーは膨大です。その膨大なエネルギーに下手にアクセスすると、さらなる自律神経系の活性化をまねき、症状が悪化しかねません。(中略)コンテインメントとは、トラウマと再交渉する前にまず外側の境界をしっかり作り、内側のスペースを拡げておくことを指します(藤原, 2017, 8章)。」
(参考文献)
Bowlby, J. (1960). Separation anxiety. International Journal of Psycho-Analysis, 41, 89–113.
藤原千枝子(2017).ソマティック・トラウマ心理療法の展開/実際:ソマティック・エクスペリエンスの文脈から.久保隆司(編著)ソマティック心理学への招待 身体と心のリベラルアーツを求 めて(8章) Amazon Kindle 版,コスモス・ライブラリー
伊藤亜紗(2020).手の倫理 講談社
上地雄一郎(2015).メンタライジング・アプローチ入門 愛着理論を生かす心理療法 北大路書房
工藤晋平(2020).支援のための臨床的アタッチメント論-「安心感のケア」に向けて- ミネルヴァ書房
Kain, Kathy L., and Stephen J. Terrell. 花丘ちぐさ・浅井咲子(訳)(2019).レジリエンスを育む 岩崎学術出版社
野坂祐子(2019).トラウマインフォームドケア “問題行動”を捉えなおす援助の視点 日本評論社
Porges, S. W., and Buczynski, R. (2013). Body, Brain, Behavior: How Polyvagal Theory Expands Our Healing Paradigm. A Teleseminar Session. The National Institute for the Clinical Application of Behavioral Medicine. (pp. 1-30).
Porges, S. W. (2017). The Pocket Guide to the Polyvagal Theory: The Trans- formative Power of Feeling Safe. New Tork: W.W. Norton & Company. (ポージェス, S. W. 花丘ちぐさ(訳)(2018). ポリヴェーガル理論入門─心身に変革をおこす「安全」と「絆」 春秋社.)
SAMHSA(The Substance Abuse and Mental Health Services Administration) https://www.samhsa.gov/
津田真人(2019).「ポリヴェーガル理論」を読む 星和書店
津田真人(2022).ポリヴェーガル理論への誘い 星和書店
van der Horst, F. C. P. (2011). John Bowlby: from psychoanalysis to ethology. Chichester: Wiley- Blackwell.