からだとことばを通して、いのちの本質とつながる(後編)
瀬戸嶋充・ばん(せとじまみつる・ばん)
東京都出身。人間と演劇研究所主宰。演出家。大学を卒業する頃に演出家・竹内敏晴と出会ったことから演劇の世界に進み、演出家として活躍。以後、竹内氏が創始した「竹内レッスン」、野口三千三氏が創始した「野口体操」、宮沢賢治の物語の朗読を組み合わせた独自の演劇的アプローチにより、からだの可能性を高める指導を行う。東京・大阪の定期講座のほか、滋賀県の琵琶湖近辺での合宿も行う。オンラインでの講座も開催中。
これまでの記事はこちら (前編)意識がなくても、人と人は交流している
(中編)宮沢賢治が紡ぎ出す「安全な場」
今こそ、自分のからだとこころに出会うとき
――ばんさんのワークショップに参加して、からだやことばが持つ力を感じて、演劇に関するイメージが変わりました。
ばん 演劇っていろんな流派があるから、他から見たら、僕のやっているものは演劇じゃないと言われるかもしれない(笑)。
演劇との出会いは、高校3年生のときに友達に唐十郎の芝居に観に連れて行ってもらったことです。メガネを忘れて、紙屑に空けたピンホールから食い入るようにその芝居を観て、どんどんひきこまれていった。芝居が終わった後、自分のからだの中が、ずうっと波立つみたいに動いていた。演劇にはこれほど力があるのだと、衝撃を受けました。
――良い演劇は人生を変えるという。
ばん 変えますよ。セラピーとは違うけどね。セラピーは、道を外れた人をまた戻してあげるものですが、演劇は眼差しを変えるもの。
現在の演劇は娯楽になってしまっているけれど、本来は、社会の外に存在しているものです。禅に、“境涯”ということばがありますよね。修行を重ねることで至る境地。これを育てる方法を、演劇も持っていると思うのです。
場の力がある程度働いて来ると、流れが生まれて境涯の世界へとつながっていきます。「これだ」と掴まえることはできないけれど、確かに存在しています。
――話は戻りますけど、場の中では、ことばは必要ですか。
ばん 必要ですね。ことばがあるからこそ、場の中から出てくるものをつかまえられる、というのはあると思います。
――はい。「感じて体験すること」が一番大事だけれど、そこだけで終わるとちょっと一方通行な感じがします。ことばによって、「からだ」や「人」との行き来が果たされるというか。
ばん その通りだね。そして、あらかじめ期待もなくて、ふっとことばとして出てくるものがとても大事です。大げさにいうと、それを待つ姿勢が「祈り」。これも1つの場です。
――ソマティックも、体験した後のシェアを大事にしています。体験もことばもあってこそ、ひとまとまりのものができる。
ばん そうそう。僕らは、「ことばとは、意味を伝えるツールだ」と思い込んでいるよね。「頭」で感じたことを届けることが、「ことば」だと思っている。
でも誰かが「内」から発したことばに、ポーンと打たれてしまうことがあります。「ことばの概念を外れたことば」は、経験するしかないですね。
――自分の内側から湧き出てくることばとつながることができるかどうか。これは今後の人生の選択にも関わる気がします。
ばん 実は、Skypeを使って野口体操のレッスンをしたことがあるんです。大分の公民館に10名ほどの人に集まってもらって、僕は東京の自室のパソコンからモニター越しに動きを指示しました。
当時はネットインフラがまだ不安定なときで、途中から映像が切れてしまいました。そこで僕は目を閉じて、スピーカーから聞こえてくるものに注意を払ってレッスンを進めることにしました。
すると、向こうの様子が手ごたえをもって伝わって来るのが感じられました。ざわめきや揺れ動く息遣い、場の雰囲気。僕がことばでアドバイスをすると向こうで変化が起こるので、僕はそれを受け取って、また進めていった。
こんな体験がいくつかあるので、「人との直接的なふれあいが減る場合」の、「直接的なふれあい」とは何ぞや?と、考えてしまいます。間接・直接という分別の前提に立たない「ふれあい」とは何か。
――うん。「ふれあう質」といったことでしょうか。からだやことばから伝わる質によって、ふれあいの質が変わる、みたいな。
ばん 僕にとって「ふれあい」とは、「中身が自在に流れ合うこと」です。僕は物理的な接触や心理的な理解の共有は、ふれあいからは除外して考えています。
手に取って見ることも、触ることもできない、中身の変化。意識される以前に、からだの内側で生じる流れ。かたちや知識を超えて人と人、あるいは人と世界を結び、しばしの間も途切れることなく動き続けるもの。
からだの内奥に潜んでいるものが、からだを超えて世界と行き交う。その成立の瞬間あるいは運動の継続を、「ふれあいが成り立っている」と言います。
――そうですね。自粛後にいろいろな方のZOOMのレッスンを受けてみて、オンラインでも伝わるものはあると、私も感じました。
ばん 演劇やセラピーに縁のない人には、特殊なことだと思われてしまうかもしれませんが、実は誰もが「ふれあいが成立すること」によって、生きています。
人は、本当のことばに出会わないと生きていけないのです。僕は竹内敏晴(※)に出会って、本当のことばこそが、その人の内側に飛び込むことを知りました。
(※)1925-2009。演出家。発声や動きなどの演劇レッスンにより、人と人との本質的なふれあいや人間の可能性を開くことを目指す「竹内レッスン」を主宰。『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)など著書多数。
――本当のことばを語れる人たちがつくった演劇であれば、どんな内容でも人の心を動かすのでしょうか。
ばん ええ。川崎のリハビリセンターで、統合失調症の人たちのための演劇グループの演出をしたことがあります。そのセンターには鉄道や音楽のグループもあって、リハビリの方法をさまざまに模索していたのです。
何回か稽古をして、その演劇グループで芝居をやりました。センターの体育館にスタッフやご家族の方が集まって、体育館の前面に座ってね。
芝居が始まって、メンバー(統合失調症の患者さん)が出て来て演技をすると…もうすごかった。
「何か」がうごめいているのが分かるのです。
役者がちょっと動くと波がバーっと上がって、ちょっと動くと今度は波がシーンとする。波が寄せてまた押し返されるような、濃いつながりが最後まで続いて行った。ふだん喋らない患者さんがセリフを喋ると、体育館の中が一気に活気付いていった。
後から思ったのは、統合失調症の方たちって、「はだか」なんですよね。だから観ているこちらもはだかになれる。
――魂のようなものが、むき出しになっている。
ばん 僕は舞台の演出をしていたので、客席のいちばん後ろで彼らの芝居を見ていました。すると、体育館の空間も含めて、空間がキラキラと、銀の粉を撒いたみたいに光っていて。「なんじゃこりゃあ」と思いましたよ(笑)。
――すごい。
1988年、僕が30代の頃の出来事です。これよりも良かった演劇は、これっきりできていません(苦笑)。
ただそれ以降、「何が大事なの?」って問われたときに、本当に大事ではないものは「要らねえよ」とハッキリ言えるようになりました。
――からだやことばを通して、自分や周りのものたちと実感を持ってつながっていくという体験は、これからますます必要になってくると思います。決して綺麗事ではなく。
…というわけで、最後にひとこと、お願いします。
ばん 先日、高倉町珈琲からの帰り道、夕暮れの迫る奥多摩の山並みに向かって、自転車をこいでいました。…すると、街道やそこに並ぶ民家、欅の列の景色が何か違って見えました。
街の空気が柔らかい。ふんわりと滑らかに揺れて流れている。
「ああ!町の感情が動いている!」
忘れてしまっていた、懐かしい武蔵野の風景とそこに暮らす人たちの醸す息吹が、僕を満たしていました。
3.11の一斉停電のときもそうでした。冷蔵庫のモーターやテレビやオーディオ機器の音、自動車のエンジン音などがみな消えて、闇の中から浮かんできたのは、地球の立てる唸りでした。
現在、辛い状況が続いていますが、今こそ本来大切にすべきものが、からだの感覚を通じて姿を表すチャンス。埋もれてきた大事なものが垣間見られるチャンスです。
このチャンスをとらえられるようになるには、まずは懐かしさやありがたさを感じとり、これを意識化できるようになること。
意識が持つ鈍さ・粗雑さを反省して、「からだ」の細やかな感受性を育てることが必要だと思っています。
(終)
インタビュアー/半澤絹子、吉田裕子 2020年2月 東京・小金井にて(後日インタビューあり)